鞆は、瀬戸内海という海を介して発展してきた町です。江戸時代から鞆の町民は港を大切に守ってきました。船荷の上げ下ろしに便利なように雁木(がんぎ)を港に回し、船の安全を守るために波止(はと)と常夜燈を築き、船の修理と維持補修のために焚場(たでば)を築造し、船の出入りを管理するために船番所を置きました。こうした江戸時代の港湾施設がすべて残っているのは、全国でも鞆だけだといわれています。また、江戸時代の記録によると、港内の浚渫も度々行われ、大型船の入港に備えていました。その結果、鞆の港は瀬戸内の要港として、朝鮮通信使などの外国使節や北前船を始めとする全国各地の商船を受け入れ、国内外から多くの文物や文化が入ってきたのです。
今でも、その繁栄の証である歴史的遺産や貴重な建物が驚くほど多く残り、文化庁をはじめ全国の有識者から注目を集めています。「八朔の馬出し」や「町並み雛祭り」が華やかに開催できるのも、その舞台となる歴史的な町並みを残してきたからにほかなりません。
医王寺や城山、あるいは要涯から見る町並みと一体となった港の景観は、仙酔島など名勝地である美しい自然を借景として、訪れる人の心を和ませ、ゆったりとした時間の流れの中に引き込んでいくのです。
このように、鞆は、美しい自然を背景に、歴史的遺産である多くの文化財と伝統的町並みと江戸時代のままの港が三位一体となってセットで残る、全国唯一の港町なのです。その鞆の魅力を、港の埋立架橋計画は葬り去ろうとしているのです。
昨年九月に、三好福山市長は埋立に必要な同意取得を断念したと発表し、藤田県知事もそれを受け入れる発言をし、報道機関は一斉に埋立架橋計画は白紙に戻ったと報じました。ところが、行政は地元民による未同意者への説得に期待すると、県・市の事業でありながら、問題の解決を鞆町民に丸投げして高みの見物を決め込んだのです。しかも、埋立架橋と町並み保存はあくまでセットだという大義名分を振りかざして、予算が付いているにもかかわらず、町並み保存事業を凍結してしまったのです。この暴挙に対して、オール与党である市議会は目をつぶってしまいました。
四月には市議会議員選挙があります。太陽新聞に出馬予定候補が順次紹介されています。それを読むと、鞆出身議員は相も変わらず市長に追従して、埋立架橋の早期実現をとお題目のように唱えているだけです。
町並み保存が凍結してはや一年が過ぎようとしています。私の家もそうですが、鞆の古い貴重な建物が今どうなっているか、鞆の市会議員ならわかっているはずです。このまま解決を地元に丸投げしたまま崩れかけた建物を放置すれば、次々と貴重な建物は消えていき、町並みの価値は失ってしまいます。セットと言いながら、埋立架橋さえ実現すれば町並みなんかどうでもいいと考えているのでしょうか。それが証拠に、町並み保存の凍結を続けるよう地元の四団体から申し入れがあったと、市長がはっきり答えているのです。新年早々のこの新聞記事には、大きな驚きと怒りを覚えました。
町並み保存が進むと埋立架橋はだめになると、埋立推進派は思っているようです。町並みが整備され観光客が増えれば、港とセットで残そうという気運がさらに高まるはずです。このことを埋立推進派はよく知っている。だからこそ町並み保存だけを先行させたくない、という思いがあるようです。ということは、埋立推進派も港と町並みがセットで残ってこそ鞆が魅力的な町になることを十分承知しているのです。
埋立架橋推進派が、バイパスと駐車場という、一つの課題を表に出していますが、その解決の方策はいくらでもあります。今のような膠着状態になっても、なお埋立架橋に固執するのは、裏になにかあるとしか思えません。とにかく、二百年、三百年守ってきた鞆の遺産を、将来にどう伝えていくのが、これがわれわれ鞆住民に課せられた使命だと考えています。埋立架橋が実現すれば鞆が発展するという絵に描いた団子は、いつまでたっても食べることはできないでしょう。 |