埋め立て架橋
揺らぐ鞆の浦
「野球場に例えると、不老橋はホームベース。和歌の浦をめでるかなめなのに、目の前にバックスクリーンがそそり立つような風景になった」。10年以上前から和歌山市の和歌の浦を描き続ける洋画家中尾安希さん(54)=同市三葛=は絵筆を置いて背伸びした。
和歌の浦は、干潮時には干潟が現れる景勝地。鞆の浦と同じ万葉の故地である。不老橋は石造りの太鼓橋で、江戸末期の嘉永四年(1851年)に紀州徳川家が造った。十bほど下流に、県道橋「あしべ橋」(幅11b、長さ80b)が和歌川河口の景色を遮るように架かる。
鞆と似た経過歩む
あしべ橋は西約500bの片男波海水浴場へのアクセス道の一部として計画され、住人訴訟が起こるほど地元を揺るがせた。
話は88年にさかのぼる。県が計画を公表した直後から住民や大学教授、文化人らが反対運動を展開。半年後には「和歌の浦を考える会」が結成され、県などに計画中止を再三陳情した。一方で、地元の自治会役員らは推進を陳情するなど、鞆と似かよった経過をたどった。
双方の緊張が高まる中で県は89年5月,架橋工事に着手。同年12月、考える会のメンバーら13人が知事を相手取って和歌山地裁へ提訴した。原告側は歴史的な景観を損なうとして建設費の公費支出差止めを要求。この間も工事は続けられ、橋は91年3月に完成した。
完成後に敗訴判決
完成後に出た判決は原告敗訴。和歌の浦は文化財保護法などによる名勝に指定されておらず、歴史的文化的環境の保護は行政の裁量にゆだねられ、工事に違法はない―と退けられた。しかし、控訴はしなかった。
住民訴訟通じ景観に配慮も
「判決は不満だが、一定の成果はあった」。原告団の1人、和歌山大学教育学部の米田頼司助教授は説明する。第一は行政の意識改革。和歌山県都市計画課の藤崎強課長は「公共工事はできるだけ景観に配慮すべきだという意識が高まった」。当初、どこにでもあるような形の橋にする計画だったが、太鼓橋風の橋脚にして表面は石張りに設計変更。建設費は2倍以上の八億二千八百万円にふくらんだ。さらに、昨年4月には和歌山市が不老橋を文化財に指定した。
新橋設置で交通渋滞
だが、橋が架かったことで新たな問題が起こった。
浮輪やビーチパラソルを積んだマイカーの長い列。抜け道を探して住宅地に入ってくる車の騒音で窓は開けられない。時には追突や出会い頭の接触事故があり、子供たちが外で遊べなくなった―。あしべ橋の近くに住む主婦中原陽子さん(50)の苦情を再現するとこんな絵柄になる。
「景観取り戻せぬ」
原因は新しい橋の整備。中原さんは「役所は工事を始める前、橋を架けたら便利になると言っていたのに、全く逆だった」。
やはり架橋計画がある鞆の浦を訪れたことのある米田助教授も言う。「一度破壊した景観は取り戻せないし、予期せぬトラブルのもとにもなる」
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