“開港 鞆の浦” 趣意書

 広島県の東部、沼隈半島の東南端にあり、瀬戸内海の中央に位置する鞆は、古くから潮待ちの港として栄えた。港を囲むように点在する仙酔島や玉津島など大小の島々は、防波堤の役目を果たし、天然の良港でもあった。そのため、万葉集に歌を残す大伴旅人、中世の足利尊氏、近世の朝鮮通信使、そして幕末の坂本龍馬や七卿など、歴史上の人物の多くが鞆の港に立ち寄った。
朝鮮通信使の一人は、対潮楼からの眺めを「日東第一形勝」と絶賛し、その景観は、現在も名勝「鞆公園」として受け継がれている。
 江戸から明治にかけて、鞆の港には北前船をはじめとする大小の商船が入港し、山を背負った狭隘な土地に商家が軒を連ねた。当時の紀行文には、美しい町並みをもつ瀬戸内きっての大都会だと記されている。そうした港の繁栄も、交通手段が海上交通から陸上交通へ移行したことにより、徐々に失われていった。
 しかし、鞆の港は、今もほぼ江戸時代そのままの形状を残している。海から港へ入ってくると、遠くから船番所跡が望め、波止場の間をぬって湾内に入ると、正面に常夜燈、そして雁木が長く延びている。船を修理した焚場跡も最近確認された。こうした江戸時代の港湾施設をすべて残す港は、世界中探しても鞆以外にはどこにもない。
 しかも、港の背後には全国に誇れる歴史的な町並みが残っている。町中を散策すれば、尊氏ゆかりの「備後安国寺」、秀吉ゆかりの「沼名前神社能舞台」、朝鮮通信使ゆかりの「対潮楼」、保命酒発祥の地「太田家住宅」など、鞆の長い歴史を彩る文化財が色濃く点在している。
 鞆は海に向かって開けた町であり、こうした歴史的文化遺産もすべて海から入ってきた。かつては、海の道を通ってたくさんの商船が入港したが、現在も鞆の表玄関が港であることに変わりはない。
 今、商船に代わって、ヨットやプレジャーボートなど、レジャー船の受け入れ準備を進めている。それも、日本国内だけでなく、世界中の海を愛する人たちが気軽に立ち寄れる港にするために。鞆には、旅人の心を癒す美しい港と町並みと自然景観がセットで残っている。
 港に船を着け、鞆の浦温泉で汗を流し、瀬戸内の小魚を味わう。そして、町並みを散策すれば、身も心もリフレッシュできるだろう。
 そこで、われわれ「開港 鞆の浦」発起人一同は、鞆の港を、海からの訪問者の海駅として新たに開港し、海の道復活を目指して立ち上がった。

平成16年12月1日              
             取次人 澤村猪兵衛

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