山中鹿介首塚
と ささやき橋

静観寺の前に立つ、山中鹿介の供養塔、と ささやき橋

山中鹿介の供養塔

ささやき橋
戦国時代の武将・山中鹿介は尼子氏の再興に生涯をかけ、織田信長の援助をのもとに、毛利氏と対決していた。
美作・備前の国境にある播磨の佐用郡上月城に、尼子勝久を将として、鹿介は立て籠もりました。山陰道から吉川元春、山陽道から小早川隆景の毛利氏の軍勢三万に取り囲まれ、秀吉の援軍は三木城攻撃で手いっぱいもあって、孤立無援の上月城は落城しました。1578(天正6)年7月3日、尼子勝久、氏久兄弟は切腹し、鹿介は囚われの身になりました。
7月17日護送中、高梁川と成羽川の合流点にある「阿井の渡し」で殺害された。
備中松山城に在陣していた毛利輝元は、そこで首実検をした。鹿介の首は備中松山城より鞆城へ送られ、その時、鞆にいた最後の将軍・足利義昭も首実検したと伝えられる。
鹿介の首は、この首塚の近くに埋葬されたと伝えられる。今でも静観寺では毎年7月17日に「首塚祭」の供養が行なわれている。

首塚の右手に見える小さな橋が「ささやき橋」
官妓 江の浦 と都から来た役人が恋に落ち、人目を忍んで愛をささやいたが、それが噂となり、罪を問われた悲恋の舞台だと言い伝えられてます。


参考資料:福山市鞆の浦歴史民俗資料館編修:鞆の浦の自然と歴史による。

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