焚 場 跡 (たでば)


鞆は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、波おだやかで潮の満干の差が大きく潮待ちの港として古代より利用されました。

江戸時代の朝鮮通信使は、壱岐の勝本、筑前の藍島、長門の赤間関、周防の上之関、安芸の蒲刈島、備後の鞆の津、備前の牛窓、播磨の室津、攝津の兵庫、を経て大阪に上陸し、京都を経由して東海道を進むのが恒例でした。

当時は、すべて木造船でしたので、フジツボやカキなどの貝殻や海藻が付着したり、船虫が付いたりするため、船底を焼いて乾燥させることによって、船命を長持ちさせる必要があります。これを「たでる」と言い、そのたでる場所を「焚場」と呼んでいます。この「焚場」では、船の修理も行われました。
満潮時に船を引き寄せ、干潮時に船底を木の葉で燻したり、修理をする施設が焚場です。

焚場として江戸時代から大正時代の始めまで栄えました。
当時は、千石船が50杯/月、300〜500石の船が130杯/月 もの修理などを行い、瀬戸内では最も大きな焚場でした。
江戸時代の商港でこの施設が残っている所は極めて少なく、ここは最大で石畳造りの立派なものです。


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焚場1 現在残っている焚場の跡、潮が引くと石畳が現れます。

江戸時代の焚場は自然の岩盤を利用していたそうですが今は砂に埋もれてます。

焚場2 干潮時に露見した焚場跡(1997年3月撮影=高垣光晴氏)

焚場3


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