国指定重要文化財
太田家住宅




酒造業で繁栄した商家
瀬戸内海を代表する建造物群

 太田家住宅は、平成3年(1991)5月31日に重要文化財指定を受けた、瀬戸内海を代表する建造物群です。建物は、主屋や保命酒醸造蔵など9棟からなり、敷地の四方は道路で囲まれています。
敷地の南東部に建つ主屋は、東側の道路を隔てて、同じく重要文化財指定を受けた別邸「太田家住宅朝宗亭」と向かい合っています。
 建物の建築年代は、文書や日記、棟札などから、主屋が18世紀中期、炊事場・南保命酒蔵が18世紀後期、北保命酒蔵が天明8年(1788)、西蔵が寛政元年(1789)、東保命酒蔵が寛政7年(1795)、釜屋・新蔵・北土蔵が19世紀前記頃と考えられています。
 これら一連の建物は、江戸時代中期から後期にかけて、保命酒屋中村家によって、家屋敷を購入しながら拡張・増築されてほぼ現在の規模になり、明治期に太田家が受け継ぎ今日に至っています。
 平成8年(1996)から平成13年(2001)まで、約6年の歳月をかけて保存修理事業が行われ、屋敷構えとしては最も充実した江戸時代末期から明治時代初期の姿に復旧整備されています。

太田家住宅を守る会:パンフレットより

太田家住宅

太田家住宅全景
保命酒と鞆七卿落(ともしちきょうおち)

 旧「保命酒屋」である太田家住宅は、福山市鞆町の沿岸中央部に位置します。この家屋は江戸時代には薬酒である保命酒のほか、各種の酒造を営んだ中村家の主家と土蔵群で、明治期に太田家がうけつぎ今日にいたっています。これら一連の建物は歴史的遺産「鞆七卿落遺跡」として、1940年に広島県の史跡指定を受けました。また1991年には、屋敷地約416坪とともに主屋はか建物9棟が国の重要文化財に指定されました。
 中村家に残された日記によれば、明暦元年(1655)に大阪から当地に移り住んだ当主は、万治2年(1659)に保命酒の販売を行います。当主がこの年に福山藩主水野家の鞆町奉行に願い出て、家伝の薬法を以て焼酎製銘酒をつくり、「十六味地黄保命酒」と名付けて、製造販売したことが始まりです。
 保命酒は清酒と異なり、餅米を主原料とし焼酎を用いて製造した漢方薬酒です。これに十六種類の薬味を漬け込んで製造されます。
 貞享2年(1685)には藩の御用名酒屋となり、薬酒の独占製造権を得て、鞆の名産保命酒をはじめとする各種の酒造を行い繁栄しました。
 幕末維新の際には、尊皇攘夷を主張する三条実美ら7人の公卿が公武合体派によって都を追放され長州に下りますが、その途中に鞆港に入り、保命酒屋に立ち寄っています。翌元治元年に長州より再び上京した際にも、保命酒屋に立ち寄り、主屋と別宅の朝宗亭を宿泊所として利用したそうです。この由来から、太田家住宅は「鞆七卿落遺跡」の名でも知られています。

(財団法人 文化財建造物保存技術協会:修復の手帳より)


1階平面図

2階平面図


主 屋  (18世紀中期) (2階部分は非公開)
店土間
床は瓦製のタイルと漆喰のたたきの千鳥模様です。
店の間から入り口・しも店を見る。
入り口は跳ね上げ式となっている。
店の間。
右側の板戸は開放されると格子戸となっている。
        
玄関の間 大広間 上の間
     
便所 炊事場(18世紀後期) かまど
茶室  茶室内部  次の間
襖の奥の板戸の向こうに隠し階段 
     
隠し階段
吊り上げ式になっていた。
2階CとDの間にある。 
2階‐@   2階‐A
   
2階‐Aの窓からの眺め。
この窓からは港が望めます。
   

南保命酒蔵(18世紀後期) 北保命酒蔵(1788年) 東保命酒蔵(1795年)  
   
南保命酒蔵入り口  東保命酒蔵と新蔵     
     
酒造りの道具類。
(南保命酒蔵) 
 東保命酒蔵
奥が新蔵(非公開)
保命酒貯蔵用の古備前の甕 
     
  
 「酒槽」(ふね)と「はね棒」
「はね棒」には重石がぶら下がっている。
「アミダ」 
「はね棒」を引き上げる装置。
 

西 蔵 (1789年)
西蔵入り口
両開きの土戸と鼠返しが設置されている。 
西蔵の軒先を支えている木材
古さが残っています。 
   
酒米や薬味草などを格納していた。
床は2重になっていて湿気を防いでいる。
(非公開) 
西蔵の2階
乾燥室として使われていたようだ。
(非公開) 

釜 屋 (洗米された酒米を蒸す施設)(19世紀前期)
釜屋入り口 (かまど) 掘込み式焚口

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