小松寺
臨済宗

  萬年山小松寺。瀬戸内の要港にある古刹であり、同寺へは高憎や将軍の足利尊氏・義昭、朝鮮通信使等の多彩な歴史の足跡が刻まれる。特に、本堂に掲げられた琉球使節の扁額、境内の「琉球司楽向生碑」は、よく知られるところである。
  また、境内には昭和二十九年(一九五四)まで、国の天然記念物の見事な巨大・松があり、名所となっていた。シーボルトもその松之図(版画)を収集している。なお、この松は寺伝によると、平重盛が植えたと伝える。
  元和九年(一六二三)久留米の梅林寺三世・澤雲が京都・妙心寺派の禅刹とする。その後、備後安国寺の末寺となり、現在は京都・妙心寺派に属する。

山門

本堂

かっては観光名所となっていた、境内の巨大な松は、平重盛が植えたと伝えられている。

右は昭和初期に作られた絵葉書。
琉球使節
 江戸時代の初め慶長14年(1609)、薩摩藩は、琉球王国を侵略し、王を虜にして帰り、琉球王国は薩摩藩の支配となった。薩摩藩は琉球を通して中国貿易を復活するために、琉球王国を独立国のように見せかけてぃた。
  それから、幕府は薩摩藩を仲介者として琉球王国を掌握、支配し、琉球王国は江戸幕府の将軍が代替りするごとに慶賀使を、また琉球国王の即位の時も謝恩使を江戸へ派遣し、入貢した。
慶賀使謝恩使の江戸への旅は、琉球国王の一世一代の儀礼とされ、これを「江戸上り」と呼んだ。一行は約100名の使節団で、江戸時代に18回江戸上りを行っている。その途中、鞆へはすべて寄港・宿泊している。
  薩摩藩は、琉球使節に服装や言葉などにも異国風を強制し、琉球王国が独立国であることと薩摩藩の存在を誇示した。
しかし、これによって中国や琉球文化は各地に伝播した。

琉球使節の木額 タテ57cm、ヨコ123cm
「容顔如見」(ようがんみるごとし)の扁額は、寛政8年(1796)に琉球使節(向生の父親・祖父)が、鞆港で病死した琉球使節の楽師・向生7回忌の供養に小松寺へ奉納したもので、今も本堂に掲げられている。
赤地に黒、金箔などの華やかな琉球様式となっている。

琉球司楽向生碑 総高190cm
福山藩では、鞆町奉行が琉球使節の接待を勤め、藩の別邸「御茶屋」と薩摩藩の御用商人、猫屋を宿舎としていた。「江戸上り」の途中、鞆で病死した楽師・向生は、猫屋の菩提寺、小松寺に埋葬され、墓石と共にこの追悼碑が、福山藩によって建てられた。これで、福山藩や鞆の人々が琉球使節を暖かく遇していたことも分かる。


掲載資料は福山市鞆の浦歴史民俗資料館編集の 港町鞆の寺院 その2 臨済宗寺院によります。

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